東京建物語 The Chronicles of TOKYO TATEMONO

東京建物の125年を超えるまちづくりの物語をご紹介しています。

1896 - 1920 近代的不動産業の草分けとして

  • 1.
    「東京建物株式会社」の創立
  • 2.
    永年割賦による建設請負を主事業として
  • 3.
    業績不振を打開した海外進出

「東京建物株式会社」の設立

1896(明治29)年10月、東京市日本橋区呉服町で、4大財閥の一つである安田財閥の創始者、安田善次郎によって「東京建物株式会社」が設立されました。日本最初の近代的不動産会社の誕生です。

明治期の半ば、日清戦争に勝利した日本は未曾有の好景気の中にあり、道路や水道などのインフラ整備が進み、建設ブームも湧き起こっていました。しかし、不動産取引の基盤は整備されておらず、加えて不正な取引も横行していて、経済の正常な発展を阻害する要因にもなっていました。

このような実情に対し、自身が創業した安田銀行(現・みずほ銀行)を通じて高額な不動産取引の経験が豊富だった善次郎は、土地建物に特化した金融機関が必要だと考えていました。そして、当時の東京の主だった財界人に新会社設立の協力を求め、多くの有力者たちから発起人・出資者となることの同意を得たのです。

東京で市街地が形成されつつあった当時、善次郎が構想した「土地建物に特化した金融機関」は、公共性・公益性の高さによって金融界・実業界からの支持と期待を集め、東京建物の設立に至ったと言えるでしょう。それは、それまで個人の生業として営まれていた不動産業が、近代的産業へと発展していく第一歩でした。

東京建物を設立した安田善次郎。幼い頃から商才を発揮し、実業家として成功して安田財閥を築き上げた。東京帝国大学の講堂建設に寄付し、「安田講堂」の名が残っている。
政府から交付された東京建物の設立許可証。当時の農商務大臣は、戊辰戦争や箱館戦争を率いた榎本武揚だった。
創業当時の社屋。看板には英語で「Tokyo Building Co.Ltd」とも記され、当時から海外を意識していたことがうかがえる。

永年割賦による建設請負を
主事業として

創業時、当社は、ローンによる建築請負を事業の柱とし、併せて不動産担保貸付、不動産売買の仲介を行っていました。

「ローンによる建築請負」とは、顧客の希望に基づき住宅・事務所・店舗・工場などの建設を設計から施工まで一貫して請け負い、最長15年の永年月賦による支払いをもって、土地建物の所有権を顧客に移転するというものでした。原理的には割賦販売の先駆けであり、東京建物が住宅ローンの原型をつくったと言われる所以でもあります。

「不動産担保貸付」は、創業当初から融資の申し込みが殺到し、事業開始から1年足らずで受付を一時的に停止するほどの盛況でした。

いずれの事業も当時の旺盛な建設需要、資金需要に応えるものであり、そこに、善次郎の優れた先見性と卓越した構想力を見て取ることができます。

ところで、東京建物の設立を告知した広告文の中に、次のような一文があります。

「土地建物ノ改良及金融機関ノ実用ヲ全フセンコトヲ期スルタメ、(中略)個人住居ノ安楽ヲ図リ、併テ帝都ノ品位ヲ高尚ナラシメンコトヲ欲ス」

ここに書かれた市民一人ひとりの暮らしの向上と東京全体の発展を期しての創業の決意は、善次郎の志の高さを表すものであり、また、現在にも引き継ぐ当社の志でもあります。

創業当初の中外商業新報(現・日本経済新聞)の広告。東京市内の住民に、東京全体の発展を志すというメッセージを発信した。

業績不振を打開した海外進出

創業直後、経営は順調に推移していましたが、1901(明治34)年になると日清戦争後の反動不況と金融恐慌の影響を受け、業績が低迷し始めました。

その業績不振の打開策となったのが、海外進出でした。外務省から清国(中国)天津の日本租界地3万7,838坪の払い下げを受けて1903年に天津支店を開設し、住宅やビルの建設・管理運営事業を開始したのです。

1907年には、天津企業組合の事業を引き継ぐ形で天津租界内での電力供給を兼営することになり、経営基盤がさらに強化されました。天津支店の業績は、1945(昭和20)年の終戦による閉鎖まで、当社全体の収益に大きく貢献するものでした。

天津への進出は、当時の桂内閣から日本租界の開発と経営について当社に打診があったからでした。当社が国内有数の本格的不動産会社であったこと、善次郎の経営手腕に対する政財界からの絶大な信頼があったことによって、海外進出という事業機会を得ることができたのです。

その後も海外進出は続き、1907年に漢口(現・武漢)の日本租界内の土地の払い下げを受けて祖界地経営に着手し、1919(大正8)年に支店を開設。1910年8月には京城(現・韓国ソウル)に進出しました。また、満州においても、子会社「満洲興業」を設立して1917年に事業を始めました。

1908年に発行された東京建物の株券。当時は業績が向上して資産内容も充実しており、1907年下期は年1割配当を実施した。
金融恐慌などによって業績が落ち込んでいたが、中国・天津支店の開設が打開策となった。天津支店では市街地開発などを手がけた。

1921 - 1945 関東大震災からの復興、そして終戦まで

  • 1.
    関東大震災からの復興と昭和恐慌下の事業展開
  • 2.
    海外支店・出張所の活躍
  • 3.
    統制経済下の事業活動と戦時体制への対応

関東大震災からの復興と
昭和恐慌下の事業展開

1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災は、当社にも甚大な被害をもたらしました。当時の社長を罹災で失い、日本橋区呉服町にあった1917年に完成したばかりの本社ビルも罹災。類焼で室内が焼け落ち、ほとんどの書類が焼失してしまいました。さらに、横浜支店も全焼。当社全体としては、所有建物約85棟、2500余坪のほか、担保建物も多数焼失しました。賃料収入の減少、貸付金の回収不能などにより大幅な減収を余儀なくされましたが、繰越金と保険基金で損失を償却し、危機を乗り越えました。

震災後、人々は比較的被害の少なかった東京市西部やその近郊に住まいを求めるようになり、東京の市街化傾向が一段と進んでいきました。そうした流れの中で当社は、土地建物の分譲事業に進出。その先駆けが、1928(昭和3)年の東京市小石川区の関口台町分譲地、豊多摩郡千駄ヶ谷町の千駄ヶ谷隠田分譲地の販売でした。別荘地の造成分譲へも事業を拡大し、神奈川県湯河原町で温泉付きの別荘の販売を始めました。

昭和の到来は、当社にとって「ビルヂング時代」の開幕でもありました。1929年、東京駅東口(現・八重洲中央口)前に本格的な耐震耐火構造の本社ビル「東京建物ビルヂング」を新築。当時、日本は金融恐慌から続く不況の中にありましたが、その立地の良さから、本社ビルの貸室に対する需要は予想以上の好況を呈していました。さらに、1943年に安田ビルディング株式会社を吸収合併し、大阪ビル、京都ビル、福岡ビルを所有するに至りました。

1929年に竣工した本社ビル「東京建物ビルヂング」。敷地面積262坪、地下2階、地上8階。設計は、鉄筋コンクリート構造学の権威であった阿部美樹志博士が担当した。
神奈川県湯河原町の温泉付き別荘。当社は別荘の造成分譲を湯河原町で初めて行い、その後、那須湯本でも別荘地の造成分譲を手がけた。

海外支店・出張所の活躍

昭和初期の日本は、浜口内閣の緊縮財政政策と1929年に始まる世界大恐慌が重なり、「昭和恐慌」と呼ばれる深刻な不況に直面していました。その中で当社は、国内にあっては貸し付け先の厳選、月賦建築の受注制限など、堅実な経営に徹していました。一方、海外事業は順調に業績を伸ばしていました。

特に天津支店の活躍は目覚ましく、日本租界在留邦人の増加に比例して高まる住宅需要に対応するため大規模な所有建築物の改修計画に着手。租界唯一の不動産会社としてその責務を果たし、昭和10年代には建物約3万坪、租界内の一等地の大半を所有するようになっていました。また、日中戦争勃発後は、日本軍の委嘱を受け、軍用宿舎の建設や占領地の各種不動産の管理業務に当たりました。

天津支店が建築を請け負った日本共立病院。そのほか、総領事館警察官舎や割烹など幅広い物件を手がけた。

満州では、1937年に満洲興業を吸収合併した後、その商権を現地に設立した子会社「康徳不動産」に引き継ぎました。康徳不動産は、工業都市・鞍山、経済都市・奉天、満鉄本社のある大連で、主に賃貸業務を展開。満州における邦人人口の増加や、満洲国の発展と軍需景気を背景に、安定した収益を上げていました。

京城支店は、月賦償却貸付と担保貸付に力を入れ順調に取扱高を伸ばしていました。昭和10年代中期に入ると、大規模建売住宅の分譲、賃貸ビルの建設、大型請負工事の受注などにより、飛躍的な発展を見せたのです。

当社は当時、海外に計7箇所の支店・出張所(子会社の拠点を含む)を構え、天津支店を中心に順調に業績を伸ばしていた。

統制経済下の事業活動と
戦時体制への対応

1937年7月、日中戦争に突入すると、日本政府は経済統制を強化していきました。当社も各種統制令の下に置かれ直接、間接に影響を受けましたが、中でも「地代家賃統制令」(1939年10月)と「宅地建物等価格統制令」(1940年11月)は、経営の根幹に関わる深刻な問題でした。さらに、「金属回収令」(1941年8月)によって、窓の鉄格子や階段の手すりからエレベーターまでが回収されるようになり、建物の資産価値が大きく毀損しました。

1941年12月に太平洋戦争が始まると、戦時体制へのさらなる対応が求められるようになりました。例えば、空襲対策として延焼を防ぐ防火地帯を作る「強制疎開地」に指定されると、建物の取り壊しが強行されるということがありました。当社所有地でも、強制疎開地に指定された所が何カ所もありました。

1944年7月にサイパン島が陥落すると米軍による本土空襲が本格化し、翌年3月10日の東京大空襲では本社ビル「東京建物ビルヂング」も被災しています。当然、当社の所有物件、貸付担保建物にも空襲による被害が及び、終戦までの当社の疎開・罹災建物は215件、1万419坪で、内地資産の約30%を失いました。

空襲で被災した八重洲4・5丁目(当時)。本社ビルも内部は類焼し、4階の床の一部が火災の熱で変形するなどしたが、建物は残った。

1946 - 1978 焦土からの再建と
総合不動産会社への道のり

  • 1.
    終戦後の事業再建、赤字経営の克服
  • 2.
    事業の4本柱の設定と、その後の事業の拡充
  • 3.
    不動産事業の拡大の中での新事業進出と既存事業の発展

終戦後の事業再建、
赤字経営の克服

1945(昭和20)年8月、日本がポツダム宣言を受諾し、戦争が終結しました。敗戦によって当社は、収益の柱となっていた在外資産を一挙に失いました。それは、当社の全所有土地の約40%、全所有建物の約77%にも上るものでした。

さらに、GHQによる戦後日本の経済民主化政策も、当社に甚大な影響を及ぼしました。財閥解体により当社は安田財閥の傘下を離れるとともに、資産の処分や資金の借り入れなどの企業活動に大蔵大臣・GHQの許可が必要となる「制限会社」に指定されたほか、日本政府による戦時補償も打ち切られました。

在外資産を喪失し存亡の危機に立たされた当社は、業務全般にわたる厳しい制約の下で戦後の再出発を図らなければなりませんでした。

経営再建に大きく貢献したのが、米軍家族宿舎「成増グランドハイツ」のメンテナンス業務と、本格的な建設請負業への進出でした。特に建設請負事業は、戦後の復興需要もあり、官庁工事から始まって土木事業も手掛けるなど業容を拡大させていきました。

こうした積極的な事業展開の一方で、本業であるビル賃貸事業の収益力回復、不動産仲介物件の増加に努め、業績を徐々に回復させていきました。その結果、1949年上期に繰越損失を償却し、1945年下期以来の赤字から脱却。また、1949年5月、東京証券取引所に再上場を果たしました。

GHQに提出した再建整備計画書など。GHQは占領政策の一環として財閥解体を打ち出したが、自発的に応じたのは当社を含む安田財閥のみだった。
東京駅八重洲口前という好立地を生かして、本社ビル壁面に広告を掲示する事業を開始。電光ニュースにも参入して収益を確保し、再上場につなげた。

事業の4本柱の設定と、
その後の事業の拡充

終戦から10年が経過した1955年、日本のGNP(国民総生産)は戦前の水準を上回り、戦後復興から新たな成長へと移行する段階に入りました。不動産会社にあっては、広がる事業機会と需要の質的変化に対応することが求められていました。

当社は、1956年に建設請負業からの撤退を決断。翌1957年には、①不動産売買、②不動産賃貸、③不動産の仲介と鑑定を事業の3本柱とし、「総合不動産会社」志向を明確に打ち出しました。さらに1960年、④宅地造成を加えて事業の4本柱とし、新しい時代に即した総合不動産会社の事業展開の態勢を整えました。

この時期、日本の産業は第1次産業から第2次、第3次産業へとシフトしていき、首都圏への人口集中が進みました。都心地域のオフィスビル需要が急拡大し、当社は、特にビル賃貸事業の拡充に注力しました。その第一歩として1958年に本社ビルの増改築を行い、以降の10年間で、大阪ビル、新宿ビル、横浜駅西口ビルなど、合計10棟のビルの新築・増築を進めました。当社のビル保有面積は、1956年度の3,992坪余から1966年度の3万1,488坪余へと、10年間で約8倍に増えています。

1964年に竣工した「横浜駅西口ビル」。当社にとって、用地取得による新規投資ビルの第一号であり、初めて手がけた区分所有ビルとなった。

経済の拡大とともに都市部の住宅不足も深刻化し、社会問題となっていました。当社は、戦前にも行っていた宅地造成事業の規模を拡大し、良質で適正な価格の宅地・住宅の提供に努めました。1961年に和泉多摩川分譲地、1963年に分譲マンション鶴見ハイツの受託販売でノウハウを蓄積し、同年、戦後初めて当社が施主となって東京都府中市で中河原分譲地を造成、分譲。その後も積極的に宅地分譲を手掛ける一方、別荘地の分譲にも事業を拡大させていきました。

不動産鑑定台帳と道具類。当社は明治30年代に不動産鑑定業を始め、1965年に設立された「日本不動産鑑定協会」には発起人として参加し、法規や制度の整備に貢献した。

不動産事業の拡大の中での
新事業進出と既存事業の発展

東京オリンピック後の「40年不況」が1965年10月に底を打つと、日本は高度成長の後半期に入りました。この時期、当社は、分譲マンション事業を積極的に推進していきました。引き続き拡大する住宅需要に対し、価格を抑えた大衆向けのマンションの供給で応えていこうとするものでした。

1968年の「藤沢マンション」を皮切りに、東京近郊、都内で次々と分譲マンションを販売。1974年には、開発面積約8万5,000㎡、総戸数1,046戸という当時当社最大規模の分譲マンション、「東建座間ハイツ」の造成工事に着手しました。

1968年に完成した「藤沢マンション」。当社が初めて手がけた分譲マンションで、以降、ビル事業で培った信用を生かしてマンション供給を続け、事業の大きな柱になった。

その一方、郊外での住宅供給にも引き続き力を入れていました。その象徴的事業が、埼玉県川越市と鶴ヶ島町にまたがる約18万㎡、総区画数600余りという大規模宅地分譲、「東建富士見ハイツ」で、1972年に販売を開始しました。

1972年から1978年まで12期にわたって販売された「東建富士見ハイツ」。途中、第1次オイルショックなどで苦労した期もあったが、即日販売の期も多かった。

40年不況の影響を受け、国内の高層ビル着工件数が減少傾向を見せる中、当社は積極的にビル建設を進めていきました。当社の新規稼働ビルは、1967年以降の10年間で、10棟に上ります。この時期のビル事業の拡大は、以降の当社の重要な収益基盤となっていきました。

1979 - 1995 「大型化・差別化の時代」から
「ポストバブルの経営」へ

  • 1.
    大規模プロジェクトの完遂、東京建物不動産販売の発足
  • 2.
    事業領域の拡大と事業手法の多様化
  • 3.
    バブル崩壊後の事業展開と収益体質の改善

大規模プロジェクトの完遂、
東京建物不動産販売の発足

1978(昭和53)年の第2次石油危機以降、日本経済は内需の低迷が続き、不動産業界にとっても厳しい時代となりました。ビル需要が減退し、昭和50年代の終わりまで低迷が続きました。

1979年、当社は、地上54階、高さ222.95mを誇る「新宿センタービル」を完成させました。1967年に新宿駅西口の淀橋浄水場跡の1区画を取得して以来、12年の年月をかけた大型プロジェクトでした。テナント募集が困難な時期でしたが、ほぼ満室に近い状態で開業を迎え、当社の新しいシンボルとなりました。

1979年に完成した「新宿センタービル」。右は工事中の様子。当社の収益力強化につながったうえ、技術的・造形的に優れた建築物に与えられる「建築業協会賞」を受賞するなど、社会的評価も一層高まった。

一方、住宅市場も大きな転換点を迎えていました。昭和50年代半ば、住宅の総戸数が総世帯数を上回り、買い替え需要を中心とした「フローの時代」に突入しました。こうした時代のニーズを的確に捉え、当社は、1979年に個人住宅の仲介部門「マイホームセンター」を営業店として独立させるとともに、1980年には中古住宅の流通業務を専門とする「東建住宅サービス」を設立。さらに、1986年に「東京建物不動産販売」を発足させ、中古住宅流通に関する事業を一元化し、その強化を図りました。

事業領域の拡大と
事業手法の多様化

1985年の「プラザ合意」を契機に、日本は内需主導型経済への転換が求められるようになりました。超低金利時代に突入し、後の「バブル経済」の醸成につながっていきます。不動産市場は、他業種からの新規参入企業も激増していました。

その中で当社が目指したのは、「あくまでも実需に基づき、商品構成を多様化して顧客のニーズに応えること」であり、総合不動産会社としての総合力を生かした差別化を推進していきました。

当社の総合力を余すところなく発揮した事業が、1976年に発足し1987年より本格展開した「To-be」システム(東京建物ベストプランニングシステム)でした。個人・企業に対し、所有する土地に最も適した活用法を、基本計画から事業収支計画、テナント獲得、竣工後の運営管理まで一貫して提供するものです。「To-be」システムに基づき、1998年までの期間で、住宅では「グランドメゾン田町」、「ヴェール久我山」など、賃貸ビルでは「九曜ビル」、「三田鈴木ビル」など、合計135棟のビル・マンション等を完成させました。

この時期、分譲マンションでは、優良宅地の減少や地価の上昇等により、等価交換方式による事業が増加しました。また、「億ション」と呼ばれる超高級マンション分譲事業にも進出し、1989(平成元)年から「ロワ・ヴェール」シリーズとして展開しました。

ビル事業では、昭和60年代に入り、「東京建物札幌ビルディング」(1987年竣工)や「東京建物名古屋ビル」(1991年竣工)など地方拠点都市への進出を果たす一方、東京都区部において「東京建物渋谷ビル」(1988年竣工)、「東京建物青山ビル」(1989年竣工)など、渋谷・青山地区にも進出を果たしました。

さらに、大規模都市再開発事業へも参画。代表的事例が大崎駅東口再開発事業で、1987年に「大崎ニューシティ」を竣工させ、その後数多く手掛けることになる大規模都市再開発のノウハウを蓄積しました。

当社初の本格的な都市開発事業となった「大崎ニューシティ」。工場が密集していた大崎エリアを7大副都心の一つに発展させた。

そのほか、リゾート事業では、従来の静養型別荘からアミューズメント施設を備えた拠点行動型リゾートへの転換というニーズの変化に即したリゾート開発を、河口湖・熱海・那須・羽鳥湖の4カ所で展開しました。

1988年にオープンし、ホテル部分とリゾートマンション部分がある「ホテル・レジーナ河口湖」。当社は新会社を設立してホテル運営を初めた。

これらの積極的事業展開により、当社の総資産は、1979年の400億円規模から1989年の約1,000億円へと、ほぼ2倍半の増加を見せました。

1986年に竣工した「ヴェール久我山(第1期)」。「To-be」システムで建築された代表的な建物で、その後も多くのマンションやビルを完成させた。

バブル崩壊後の事業展開と
収益体質の改善

1987年以来長期にわたった不動産業界の好況は、1990年になると急速に減速し始めました。その中で当社は、「地価の変動に左右されない真のノウハウを生かした経営」基盤の構築を目指しました。

ビル事業では、徹底した市場調査・情報収集に基づいたテナント獲得活動を積極的に推し進め、厳しい市況の中でも1994年には空室率を改善させることができました。また、分譲マンション市場は1992年に入ると活況を取り戻し、当社は、1993年に新戦略を打ち出し、新ブランド名「ヴェール」の下にマーケット別に5種類のブランドを展開しました。

年間供給1000戸の計画で、都心の1 等地の超高級マンション「ロワヴェール」から、交通の便がいい単身者向けワンルームマンションの「プリヴェール」まで5種類のブランドをシリーズ化した。

こうした本業における展開とともに、新規事業への進出も行い、経営基盤は徐々に強化されていったのです。

1996 - 2005 〝新しい世紀〟の新たな経営展開

  • 1.
    創立100周年。「信頼を未来へ」を制定
  • 2.
    不動産市場を取り巻く環境が激変する中での「グループ経営戦略」
  • 3.
    洗練と安心を理念とした新築マンションブランド「Brillia」の誕生

創立100周年。
「信頼を未来へ」を制定

1996(平成8)年、当社は創立100周年を迎えました。「信頼を未来へ」という企業理念と、新しいシンボルマークを制定するとともに、100周年記念事業として定期借地権付マンション「プランヴェールEX」、免震マンション「プランヴェール横須賀汐入」の開発、「羽鳥湖高原レジーナの森」運営事業の3つの大規模プロジェクトを展開しました。

100周年記念事業として建設した「プランヴェールEX」。土地代負担を軽減でき、内装や間取りの変更が可能なことなどから、人気を呼んだ。独自性の高さが評価され、不動産学会賞を受賞した。

1990年代半ば以降、日本経済の低迷は長引き、さまざまな経済対策が採られました。その中で、政策面からも不動産の流動化が促されていきました。〝新しい世紀〟を迎えた当社は「付加価値創造型事業への転換」を掲げ、不動産市場における事業機会の多様化・複雑化への対応を進めながら、積極的に新たな形態の事業を展開していったのです。

1998年には、SPC法(資産の流動化に関する法律)の国内第1 号登録を取得し、同法を活用した日本初の不動産証券化商品として、高輪の外国人向けサービスアパートメントの証券化を実現。さらに、1999年には、不動産特定共同事業法による本格的投資商品「東京建物インベスト・ファンド〈第3号〉」の販売を開始しました。

100周年の節目を記念し、企業理念「信頼を未来へ」をテーマに制定したシンボルマーク。東京建物の「T」をシンプルに表し、未来への広がりや発展性をイメージしてデザインした。

不動産市場を取り巻く環境が
激変する中での
「グループ経営戦略」

2000年代に入ると規制改革が進み、2001年3月にJ-REIT(不動産投資信託)市場が開設されるなど、不動産市場を取り巻く環境は劇的に変化していきました。当社は、単純な事業領域・事業機会の拡大ではなく、高度に専門化・複雑化していく事業環境への対応が必要であるとの認識の下、2001年に「グループ経営戦略」を策定し、「コラボレーション(協働)による付加価値創造力の最大化」「ITの戦略的な活用によるビジネスモデルの革新」などを推し進めました。

J-REIT市場開設に先立ち、2000年に資産運用会社「東京リアルティ・インベストメント・マネジメント(現・東京建物リアルティ・インベストメント・マネジメント)」を設立しました。翌2001年には「日本プライムリアルティ投資法人(JPR)」の前身となるファンドを、安田生命保険(現・明治安田生命)など3社と共に組成。その後、JPRは、2002年6月に東証のJ-REIT市場に上場しました。

また、不動産取引におけるインターネットビジネスの拡大を目指し、2001年、総合不動産サイトの運営などを行う「イー・ステート・オンライン」を設立。2005年には、東京建物不動産販売が業界初となるインターネット支店をオープンさせるなど、ネット上の業務も意欲的に展開していきました。

一方、SPC(特別目的会社)を活用した再開発事業においても、着実に実績を積み重ねていきました。2002年、当社組成のSPCが、福岡の老舗百貨店「岩田屋」が天神中心部に所有していた不動産20物件を取得。当社の総合不動産業ノウハウを活用して各物件の再生に取り組み、「西新エルモール プラリバ」「VIORO」などとして順次オープンさせていきました。さらに、2005年、当社組成のSPCが、国内第1号となるSPC単独の法定再開発事業として、京急川崎駅前に次世代型商業施設「DICE」をオープンさせました。

福岡の老舗百貨店「岩田屋」から取得した不動産20物件のうち、2003年にショッピング施設としてリニューアルオープンした「西新エルモール プラリバ」。その後、2015年に閉館し、再開発工事を行って住宅(Brillia Tower 西新)に併設した商業施設「PRALIVA」に生まれ変わった。
京急川崎駅前に2005年にオープンした「DICE」。国内初のSPC単独の法定再開発事業で、地上11階、地下2階建ての次世代型商業施設。

この時期から大規模都市再開発、都市再生の事業が活発化していきますが、当社も、さまざまな形態で都市の再生にコミットしています。2003年には、国土交通省等が都市開発で初めてのPFI事業として行う「中央合同庁舎第7号館整備等事業」に主要構成員として参画。2007年に「霞が関コモンゲート」として完成しました。

当社を代表する建築のひとつ「大手町タワー」は、2004年に当社組成のSCPがみずほ銀行大手町本部ビルと大手町フィナンシャルセンターを取得し、動き始めました。

官公庁や飲食店などが入居する「霞が関コモンゲート」。文部科学省や会計検査院の建替えと、この地域の再開発を行った官民協働の一大プロジェクトで、当社は事業企画・推進など主導的役割を担った。

洗練と安心を理念とした
新築分譲マンションブランド
「Brillia」の誕生

マンション分譲・住宅分譲でも、大きな画期がありました。2003年4月、それまで5つのブランドで展開していた分譲マンション「ヴェール」シリーズを、新ブランド「Brillia」に統一。新ブランド第1号となる「Brillia調布国領」が7月に分譲開始となりました。

新ブランド「Brillia」の第一弾として、2003年に販売開始した「Brillia調布国領」。野川や豊かな緑など、自然や四季を感じられる環境共生型のマンションとなっている。
Brilliaでは、業界に先駆け、竣工前に建物内を見学できる「建築現場見学会」を導入。「お客様第一」の精神をモットーに、時代のニーズを汲み取った取り組みのひとつだ。

翌2004年9月には、「Brillia」のブランドアイデンティティーを採り入れた、戸建住宅の新ブランド「Brillia Terrace」を立ち上げました。その第1号として「Brillia Terrace 横濱 空の街」の販売を開始しました。

戸建住宅の新ブランド「Brillia Terrace」の第一弾として2004年に販売を開始した「Brillia Terrace 横濱 空の街」。丘の斜面という敷地を活かし、南ヨーロッパの丘陵邸宅をイメージした戸建住宅56戸を建設した。

「Brillia」は、その後多くの人に支持され、2023(令和5)年には誕生から20年を迎えました。洗練と安心を理念に、みなさまの暮らしに寄り添う、新築分譲マンションブランドとして、時代とともに変化する豊かさを、自分らしく追求しつづけられる住まいを提供し続けています。

2006 - 2019 付加価値を創出する
未来につながるまちづくり

  • 1.
    都市・地域の再生を進める中、環境配慮の取り組みも強化
  • 2.
    社会の変化に対応し、多様な事業を立ち上げていく
  • 3.
    豊富なノウハウを活かし、中国、ASEAN各国で多数のプロジェクトに参画

都市・地域の再生を進める中、
環境配慮の取り組みも強化

2007(平成19)年から2009年にかけてのサブプライム・ショックとその後の日本経済の停滞、資産デフレは、不動産業界にも少なからぬ影響を及ぼしました。その中で、当社は、それまでに蓄積したノウハウを活かし、次々に大規模な再開発事業に着手していきます。高度成長期前後に建てられた建物の老朽化や産業構造の変化を背景に、都市・地域の再生や付加価値の高いまちづくりが求められていました。

例えば2007年には、当時全国で最大規模の640戸一括建て替えとなる「諏訪町2丁目住宅」の建て替え事業協力者に選定され、「多摩ニュータウン・ルネッサンス構想 ~人に優しい『街』づくり~」をコンセプトにプロジェクトを推進。2012年、「Brillia 多摩ニュータウン」を竣工させました。

同じ2007年、警察大学校の移転に伴う跡地の一般競争入札に参加し、落札。約3.5haという広大な敷地にオフィス・商業・住宅からなる大規模複合施設を開発し、2012年、緑の中で働くというこれまでにないワークスタイルの実現を目指した「中野セントラルパーク」を竣工させました。

2012年竣工の「中野セントラルパーク」。オフィスを中心に、商業施設、賃貸住宅、コンベンションホールなどを備えた複合施設。緑豊かな場所で、平日も休日も、新たな賑わいや交流を創出している。

また、豊島区新庁舎と超高層マンションの一体型大規模再開発という日本初のプロジェクト、「Brillia Tower 池袋」が、2015年に竣工しています。

この時期から、環境に対する配慮が強く求められるようになりました。当社は、2009年に「Brillia 環境配慮型すまいガイドライン」を、2011年に「グループ環境方針」を制定し、環境負荷の低減、建物の省エネ・環境性能向上など、事業活動を通じてさまざまな取り組みを進めています。

2013年竣工の「東京スクエアガーデン」は、自然・再生エネルギーの活用や省エネの見える化など、当時国内トップレベルの環境性能を誇るだけでなく、地下1階から地上5階まで重層的に設けられた高さ約31m、約3,000m²の緑化空間「京橋の丘」を創出しています。

2013年に完成した東京・京橋の「東京スクエアガーデン」(左)(上)。オフィス、店舗、子育て支援施設などが集まる地下4階地上24階建てのタワー。最新鋭の環境配慮型複合ビルであり、都心のクールダウンに貢献する約3,000m²の緑豊かな「京橋の丘」がある(上)(下)

2014年竣工の「大手町タワー」は、みずほ銀行本店とラグジュアリーホテル「アマン東京」が入居する当社の旗艦物件の一つですが、敷地全体の約3分の1、約3,600m ²に及ぶ「大手町の森」を有し、都市と自然の再生を実現しました。

2014年に完成した東京・大手町の「大手町タワー」(右)(上)。オフィス、店舗に加え、世界有数のラグジュアリーホテルを擁する「アマンリゾーツ」の日本初進出となったホテル「アマン東京」の誘致にも成功した。タワーの敷地内には、本物の森を再現した約3,600 m²の「大手町の森」がある(上)(下)

2019(令和元)年に竣工した「Brillia Tower 聖蹟桜ヶ丘 BLOOMING RESIDENCE」は、経済産業省の「平成31年度超高層ZEH-M実証事業」に首都圏で初めて採択され、「ZEH-M Oriented」認証を取得しました。

社会の変化に対応し、
多様な事業を立ち上げていく

2010年代に入っても、社会の変化に対応して時代の要請に応えるべく、多様な新しい事業を立ち上げていきました。

2012年、女性活躍を支援する観点から、働く女性と対話し、共感しながら、多様化したニーズに応えられる住まいを実現するプロジェクト「Brillia bloomoi(ブリリア ブルーモア)」を発足させました。2022年に発足10周年を迎え、性別や年代を超えた多様な価値観、ライフスタイルに寄り添った暮らしのあり方を提案するプロジェクトへと進化しました。

2014年には、サービス付き高齢者向け住宅「グレイプスシリーズ」で培ったノウハウを基に、「東京建物シニアライフサポート」を設立。高齢者向け住宅事業の拡大を図るとともに、有料老人ホームの運営にも進出しました。

2015年には、「Brillia」ブランドのさらなる価値向上に向け、東京建物不動産販売を完全小会社化し、住宅事業における開発・販売・管理機能の一体化を図りました。

一方、デフレ脱却を目指す経済政策「アベノミクス」が推し進められる中、2013年に「国家戦略特区法」が施行されると、都市再生の動きが、特に東京都心部で活発化していきました。当社はそれまでの都市再開発ノウハウを活かし、多数の都市再生事業に参画していきました。東京駅前で参画する大規模市街地再開発事業「八重洲プロジェクト(東京駅前八重洲一丁目東地区市街地再開発事業(A地区・B地区))」も、2015年に国家戦略特区の特定事業に認定されたものでした。

当社が手がけた初めてのサービス付き高齢者向け住宅「グレイプス浅草」は2009年に竣工。当時、高齢者専用賃貸住宅としては都内最大戸数(99戸)。

豊富なノウハウを活かし、
中国、ASEAN各国で多数の
プロジェクトに参画

グローバリゼーションが進む中、2000年代半ばからは海外事業にも積極的に乗り出しました。2006年に上海、2014年にシンガポールで現地法人を設立し、中国で住宅開発事業を展開する他、シンガポール、タイなどで事業進出を果たしました。

特に中国では、2006年、地元の大手デベロッパーグループと協業し、日本の総合不動産会社として初めて上海での分譲マンション事業に参画。その後、2010年から2016年にかけて江蘇省揚州市での分譲マンション開発「揚州プロジェクト」が、2013年から2018年にかけて遼寧省瀋陽市での分譲マンション・商業施設・オフィスビルからなる複合開発「瀋陽・明天広場プロジェクト」が竣工しています。

2020年には中国での住宅供給戸数の累計が25,000戸を突破し、日系企業として最多となりました(※2020年時点、自社調べ)。

2006年、当社は地元の大手デベロッパーグループと協業し、日本の総合不動産会社として初めて中国・上海での分譲マンション事業「上海プロジェクト」に参画。

2020年〜 次世代デベロッパーへの挑戦

  • 1.
    大規模再開発事業と分譲マンション事業の強化
  • 2.
    事業を通じ社会課題の解決に貢献していく

大規模再開発事業と
分譲マンション事業の強化

当社はこれまでも八重洲・日本橋・京橋(八日京、YNK)エリアにおける再開発事業への参画に力を入れてきましたが、2020年代に入って創業以来本社を構えるこの地域との関わりをさらに深めています。

中でも、当社の旧本社ビルを含む、東京駅前に位置する街区の市街地再開発「八重洲プロジェクト(東京駅前八重洲一丁目東地区市街地再開発事業(A地区・B地区))」は、地下バスターミナルや歩行者空間の整備、劇場・カンファレンスホールや公開空地を活用したイベント開催等によるまちの魅力向上を目指して2021(令和3)年に着工。権利者のみなさまとともに事業を推進しています。

「八重洲プロジェクト」の完成イメージ。国際都市東京の競争力強化、安全・安心な社会への貢献、テクノロジーの社会実装など、さまざまな重要課題の達成を目指している。

この他にも「呉服橋プロジェクト(八重洲一丁目北地区市街地再開発事業)」や「京橋三丁目プロジェクト(京橋三丁目東地区市街地再開発事業)」など、八重洲・日本橋・京橋エリアの魅力を高め、国際都市東京の発展に貢献する複数のプロジェクトに参画しています。

一方で、地方での事業も強化しています。福岡市では、大型商業ビル「西新エルモール プラリバ」閉館に伴い、高層マンション(Brillia Tower 西新)と商業施設の一体開発「西新リボーンプロジェクト」を手掛け、2021年に完成させました。地下鉄駅直結の屋上庭園を設けて地域に開放したり、人流を生み出す貫通通路を新設したりと、エリア全体のにぎわいの醸成に大きく寄与しています。

「西新リボーンプロジェクト」により、「西新エルモール プラリバ」からリニューアルした「PRALIVA」。高層マンション「Brillia Tower 西新」は高さ140mで、高層階からは福岡の市街地が一望できる。先進の免震構造による安全性を備えているうえ、福岡空港や博多駅にダイレクトにアクセスできる利便性の良さも魅力。

事業を通じ社会課題の
解決に貢献していく

東京建物グループは2020年、SDGsのターゲットイヤーでもある2030年を見据え、「次世代デベロッパーへ」と題する長期ビジョンを策定しました。「社会課題の解決」と「企業としての成長」をより高い次元で両立することを目指しています。

その象徴的なプロジェクトの一つが、2020年に完成した「Hareza池袋」です。当社を代表事業者とする3社が提案した「誰もが輝く劇場都市」という再開発コンセプトが評価され、豊島区から開発事業者に選定されました。8つの劇場を有する大規模複合施設で、池袋エリアの地域課題解決を目指すまちづくりに大きな役割を果たしています。オフィス棟「Hareza Tower」は、高効率な省エネルギー設備を備えた建築物に与えられる国の認証「ZEB Ready」を、高さ150m以上の超高層複合用途ビルで初めて取得しました。

2020年にグランドオープンした「Hareza池袋」。左は地上33階建のオフィス棟。中央のホール棟には、約1,300人収容の多目的ホール「東京建物Brillia HALL」を有している。

当社は今後も、事業を通じて「社会課題の解決」を目指し、サステナブルで高付加価値なまちづくりを推進していきます。

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